■ 俯瞰というもの
何故、俯瞰をするのかと聞かれても困るが、そうした疑問を持つ人はおそらく、本当の俯瞰を知らないのだと思う。敢えて答えるなら、俯瞰をできる場所があるから俯瞰をするのであって、もはや理屈の域ではない。
ただ実際、吹さらしの山の上で猛烈な吹雪に遭ったりすると、自分自身、とても情けなくなる。なんで、ここでこんなことをしているんだろうと思ったりする。SLの写真なら線路際で十分撮れる。それなのにまた山へ登る。
山の上からは当然、その線路際に群がる同胞たちが見える。“有名撮影地”は黒だかりの山、さぞ窮屈なことだろう。例の如く、罵声が飛びかっているかも知れない。
列車が見えている時間がきわめて長い妙法原では、途中で4回も5回もフィルムを入れ替えるのは当り前、レリーズ片手にパンを食べたりジュースを飲んだり、あげくには用まで足している。
いつだったかダイヤが乱れたときでも、それこそ運輸司令室のパネルの実写版のごとく列車の位置が一目瞭然で、まるでNゲージのレイアウトを見ているようで全く退屈しなかった。
不謹慎だと言ってしまえばそれまでだが、それが楽しいのだ。
聞けば、自分はSLが好きだ、だから常にSLのすぐそばで、大地を揺さぶるような鼓動を感じて、煙を浴びて、カメラだけでなく体全体でSLの姿を焼き付けるのだという。
これには正直、負けた。
1997-1-29 会津村私は山登りに関しては素人だと自負している。決して無理はしない。基本的に林道を歩くのみ、けもの道にも入らない。想像以上の険しい道のりに、途中で引き返してきたことも多々ある。
当り前のことだが、写真を撮りに、それもSLの写真を撮るために山へ登るのであって、いくらシャッターを切っても、そのフィルムを自分の体とともに安全に麓まで下ろすことができなければ、何の意味も無いのだ。
一般の登山と違うのは、なにより時間制限があること。目的の列車が通過するよりも先に、自分がその場所に着いていなければならない。したがって、時間的に余裕が無ければ、やはり山へは入らない。
いや、入らないようにしていたのだが、入ってしまった。それも雪山に一人で。
素人登山も回数を重ねてきて、無意識のうちに自信がついてしまったのだろうか。
幸い、何事もなく下りてきたが、この先、自分の意識から「素人」という文字が消え失せたとき、それが最後のときだと、改めて肝に銘じた。
■写真(特記以外):1997-2-2撮影 9228列車 「SL磐梯会津路号」 D51498 妙法原新第2展望台より (フィルム:RVP、機材:ニコンF4E + Ai500mmF4P)
455系(クロハ編成) 磐梯町-更科 上の写真との間にΩカーブがあるため、列車が反転しているのが分かります
この項は、まだパソコンやインターネット回線が貧弱だった頃にアップしていたものを、写真をすべてスキャンし直して再構成したものです。
当時のリバーサルフィルムのスリーブは、この日の妙法原のものだけで36枚撮りが7本に及びます。
合間にやってくる普電や「ビバあいづ」なども撮っていますので、すべてがD51のカットというわけではありませんが、フィルムを入れ替えながら撮り続けるのは、俯瞰ならではの醍醐味でした。
現代、デジカメなら軽く1000カット、いや2000カットは行くかも知れません。
見た目にも陽が傾いてきた頃、後ろ髪を引かれる思いで帰路に就きます。その足取りは、非常に軽いものだったのは言うまでもありません。
寺院に置きっぱなしにしていた荷物、むろん目立たないようには工夫していましたが、仮に失くなっていたとしても「今撮った妙法原のフィルムさえあれば、あとは何も要らない」と思えるほどの手応えを感じていました。
実際それを想定して、「山に行くときは1グラムでも軽く」をモットーにしているにもかかわらず、山中では必要がない「財布と切符と家の鍵」も身に付けて持っていっていました。もちろん荷物は無事だったため、それらは蛇足に終わりましたが。
しかし・・・
きっと、私にとっての妙法原は、この1997年2月2日が完成形であり最終形なのでしょう。
1998年以降も何度か妙法原には足を運んだものの、この日を超える絵は一向に得られない、というより遠く足元にも及びません。「こんなのは妙法原ではない」 ── そんな落胆を重ねたくなくて、想い出を壊したくなくて。
もう、あれ以上のものは撮れないのだと悟り、足を遠ざけている憶病な自分がここにいます。
(2015.4.24 再構成)
1.2.3
デゴイチよく走る!
掲 草 予 時 写 昔 DB 鹿 宿