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■「能登」と「北陸」
2010/03/15
今回は単なる思い出話です。
「能登」は1回。「北陸」は2回、乗ったことがあります。

1991年2月、七尾線の「SLときめき号」最終年。往きに乗っていったのが急行「能登」でした。14系客車で信越線(軽井沢・長野)経由だった時代です。私にとって初めての碓氷峠越えだったり。

周遊券利用でしたので座席車の自由席に乗りましたが、当時の「能登」は、上野口の定期急行としては唯一となってしまった寝台車を連結しており、車内放送でしきりに「寝台に空席がありますので、寝台ご希望の方は車掌まで」と案内していました。また「急勾配区間(碓氷峠)を走るため、網棚の荷物が落ちないよう、しっかり載せて下さい」と繰り返し放送していたのもよく覚えています。


能登・加賀温泉周遊券
能登線の区間(穴水-蛸島)は、当時すでに第三セクター・のと鉄道に移管されていたため、自由周遊区間から削除されています。

七尾線では急行「能登路」が7往復ほど健在で、急行の普通車自由席なら急行券なしで乗れるミニ周遊券が本領発揮。


そして翌朝。夜も明けきらぬ、雪降る津幡駅で乗り換え。七尾線の一番列車の車内では、しばし車掌が検札を始めました。私の所にも当然回って来たので切符を見せようとしたら、何を思ったか車掌、それを遮って「オレンジカードいかがですか」と宣う。どうせ周遊券だと思われたのでしょうし、実際そうなのですが、結局、私のキップは見ずじまい。オレンジカードをタンマリ買ってもらって満足したのかな。

そういえば、能登中島-西岸の「大写面」にもJRの社員が来て、オレンジカードや弁当を売っていましたね。一応、警備名目なんでしょうけど、商売熱心です。

その「大写面」でSLを撮影したあとは、線路を歩いて帰ります。えっ! と思うでしょうが、まともな道もないので暗黙の了解というやつです。むろんJR社員は、積極的に「線路を歩いていいよ」とは言いません。しかし、ハンドマイクで「線路を歩いて帰る人は、(次駅の西岸でSLと交換してくる)上り列車が何分頃に通るので、それをやり過ごすまでお待ちください」という表現で案内していました。

昨今、JRとファンの間で、洒落にもならないようなトラブルがあるようですが、たかだか20年前は、ともに鉄道という共通の話題を持った人間として、JR社員もファンもお互いを尊重しながら和気あいあいに皆で楽しんでいた、そんな時代でした。

帰りは「北陸」です。B個室の上段。まともにブルトレに乗ったのは、これが初めてのはず。「まともに」というのは、子供の頃、国鉄の企画で「こだま&富士」「こだま&さくら」というのがあって、朝の新幹線で熱海や静岡へ行き、上りブルトレのヒルネ扱いで東京へ帰ってくる、というのでは乗ったことがあるからです。

「北陸」の車中では、ちゃっかりシャワーも浴びて贅沢気分。帰りも「能登」自由席で節約という選択肢もあったわけですが、ある程度はお金も自由になってきた頃。帰りの“足”に留まらず、帰りの“B個室”が確保されていると思うだけで、心に余裕を持ってSL撮影に臨めていた気がします。

そもそも「帰りの北陸のB個室が取れたら、撮影に行こう」的なノリでマルスを叩いてもらったら、わけなく切符が取れてしまったので出撃と相成った「SLときめき号」でした。

このように「SLの写真を撮りに行ってきた」背景には、ただただ自分の記憶の中に残っているだけの思い出もたくさん付随しています。写真に撮って残した“思い出”なんて、ほんの一部に過ぎません。行き帰りに乗った列車、路線などは、いきおい「目的」ではなく「手段」という位置付けになりがちなため、得てして写真には残していないものです。

もしかすると、こうした「自らの記憶の中にだけ残っている思い出」こそが、人生の充実度を決めるバロメータなんじゃないかとも考えています。そういう思い出を特に演出してくれた夜行列車、ブルートレインという名脇役が無くなっていくのは、時代の流れとは言え寂しいですね。

ちなみに2回目の「北陸」は、七尾線から半年後、越美北線の「SL奥越メルヘン号」の帰りです。特筆すべきことはありませんが、強いて言うなら「往き」。東京から急行「東海1号」で静岡へ。普電やら快速やら乗り継いで名古屋へ。「ワイドビューひだ」の前面かぶりつき席で富山へ。・・・って具合。これはまた別の機会に。


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DB 鹿 宿